坂本健介の過去

昭和56年10月13日生 天秤座 O型 青森県青森市にて産声をあげる。

私が生まれたとき、父方の祖父の一回忌だったのかよくわからないが、祖父の生まれ変わりだと言われたようだ。祖父は大工の頭領だった。父も一時期大工をしていた事があり、大工道具が家によく転がっていた記憶がある。

幼い頃の記憶はあまり覚えていないが、ハッキリ覚えているのは、父が大学ノートに描いてくれた自分の似顔絵だった。紙に鉛筆でさらさらと描いただけだったが、非常にリアルに描写しているように感じた記憶があり、幼い自分には強烈に印象に残っている。これが、絵やグラフィック的な物に触れる最初の経験だったのだとおもう。

父は勉強がよく出来、感性が繊細な人だった。

親の離別
ある日、母は風邪で寝込んでいた私と、姉の手をひき、父の実家を出て行った。幼心に親同士が分かれる「離婚」というものを理解した。母は仕事で忙しく、祖母が面倒をみてくれた。

勉強に熱が入らなかった学生時代
小学校では絵や漫画をよく描く少年だった。算数の授業で100マス計算なるものをやらされるが、私はとにかくできなかった。一気に勉強嫌いになる。

中学生になると、視力が弱くなっていたにも関わらず、眼鏡をかけなかったことで勉強にあっというまについて行けなくなった。この次期、パソコンにはじめて触れてハマる。家のアナログ電話回線ではじめてインターネットに触れる。

勉強しても身が入らなかった。小学校と違い、順位や偏差値をまじまじと見せつけられているにもかかわらず、半ば開き直りの状態だったように思う。

親も、教師も、友達も、私が当時やりたかった事に理解を示してくれる人はいなかったように思う。

授業中も、ノートにマンガを描いていた。先生や親からいろいろ言われてもなぜかイラストを書くことをやめなかった。
バカだったのだろう。

歌をうたうことは好きだった。合唱コンクールで選抜された。学級新聞を制作するにあたって勢力的に活動したりと充実した日々を送っていたように思う。

しかし、何をやるにしてもグラフィックしか頭になかった。

この時期に、母が仕事で使用するために東京でシステムコンサルタントとしてはたらく叔父からノートパソコンを購入する。

当時からみても、性能がいまいちのノートパソコンだったが、
私には宝箱にみえた。

パソコンというモノの出現に、私の心は踊った。
グラフィックを制作をするツールにもなれば、ゲームができたり、ネット上にある無料のアプリケーションを思う存分楽しめるという夢のような環境だった。

最初はパソコンでゲームをやったりしていたが、
「ディアブロ」というゲームをやったことで、ネット上で全然知らない人達とコミュニケーションをとったり、一緒に協力してプレイしたりする面白さは、家庭のテレビゲームではなかなか味わえないものだった。

ディアブロでネットに接続したことがきっかけとなり、ブラウザでネットサーフンをするようになり、無料のアプリケーションの存在を知るようになった。フォトショップやイラストレーター等、プロ用のアプリケーションは高額で、中学生が購入できるものではなかった。しかし、無料のアプリケーションを使用することでイラストを描いたり、3Dグラフィックスを作ったりできた。

中でも、私が熱中したのが、「六角大王」である。
3Dアプリケーションは高額で、操作も制作方法も難しい・・・そうゆうイメージだったが、六角大王は、無料かつ手軽に楽しめる3Dアプリケーションだった。

DirectXもOpenGLも使用していないが、
直感的に空間に形を創造できる感覚は、「空間に施すラフスケッチ」で、操作感覚としては非常に斬新なものだった。

しかも、インストールしなくてもよくて、フロッピー1枚で環境とデータをまるごと持ち運びができるという優れものだった。

昼夜を問わず、私はパソコンに夢中になった。

インターネットをやりはじめたのもこの時期である。当時はまだダイヤルアップなのにも関わらず、時間を気にしながらホームページ作りなどをやっていた。

ネットのあちら側の人との会話や、やり取り。インターネットの可能性に触れた。

しかし、私にとって新鮮な感動も、母や先生からすれば、単なる遊びに過ぎず、パソコンのやり過ぎに怒られた記憶がある。

中学3年生になって、いよいよ進路を考えなくてはならなくなったとき、やはり美術系に進みたい気持ちが強かった。

青森市の下に八戸市があった。八戸市の八戸工業大学第二高等学校には美術を専攻する課があった。

私は体験入学を希望し母と一緒に八戸に行った。パステルを使ってバナナの絵を描く美術体験をした。私の心の中では、第一志望は決まっていた。

帰った日から、受験対策として、デッサンを美術の先生に教わることになる。左手をデッサンするという内容だった。絵を本格的に教わったことのない私だったが、飲み込みは早かった。

第一志望に合格したが、金銭的な負担のすくない第二志望の青森公立工業高校のインテリア科に進学することに。

元々、コミュニケーションは得意ではないのに加え、クラスの7割は女子という環境で私は萎縮した。(工業高校だがインテリア科は女子が多い)

一週間に一回、デッサン会に通い絵を勉強していた。自分のホームページを立ち上げ、パソコンで作った作品を公開するようになっていた。

勉強もできない、学校生活も楽しめない状態だった。
テレビゲームをやるために仮病を使って休んだりした。
遅刻は毎日のようにしていた。

友人宅に泊まって夜更かしをしたり、
町のゲームセンターでたむろするようになる。

親からも、白い目で見られた。
姉は、私とは対照的で両親と同じ、
「進学校」を卒業し、国立大学に進学していた。

勉強ができる家族、できない自分
いつしか、私の心の中は、劣等感でいっぱいになっていた。

しかし、絵を描いたり、パソコンを使う事はやめなかった。
インターネットでのコミュニケーションは積極的にやっていた。

高校入学当時から、自分のホームページを立ち上げ、パソコンで作った作品を公開するようになっていた。

ホームページに訪れた人はわずかだったが、感想をBBS(掲示板)に書き込んでくれたり、メールをくれたりと私は更新作業に熱中した。

工業高校には、情報処理科というコンピューターを専門に扱う科があった。
私は、自分の所属するインテリア科よりも、情報処理科の生徒や先生達と仲良くなった。

コンピューター室にも出入りするようになり、放課後や昼休みにホームページ作成や、3DCG制作をするようになった。

高校も卒業間近になると、進路について向き合わねばならなかった。

母は、私に対して美術大学への進学を進めた。
美術予備校にはいかず独学でデッサンを描き続けた。
結果、受験した美術大学には落ちてしまった。

1年間のモラトリアム
美大を受験するが落ちた私は、高卒で就職するのはいやだったので、慣れない接客のアルバイトをしながら生活し貯金する。アルバイト先は失業した人だったり、パートのおばちゃんだったり、ほとんど年上の人たちだった。集団や組織がない事への心細さを感じることになる。

自分でパソコンを購入し、地道に作品をつくりホームページを更新していた。作った作品が雑誌に掲載されて喜んだ。しかし、母からは毎日のように冷たい視線が投げかけられた。そんな生活を1年間続けるうちにいつしか「パソコンで絵を作って仕事ができたらいいなぁ」・・・と思うようになっていた。

仙台の専門学校へ
そんな1年間のモラトリアム期間を経て、仙台の専門学校に進学した。チャラチャラした専門学校の周りの雰囲気になじめなかったが、授業はまじめに出席していた。成績は学年トップだった。独学でデッサンはつづけていた。一回1800円で裸婦デッサンをやっている事を教えてもらった。ほぼ毎週通った。1年生の秋頃、仙台の学生達を集めた学生団体に参加した。広告代理店の和か社長につれられて、イベントのデザイン制作をやった。お金にはならなかったが良い経験になった。パソコンを少し使える程度のスキルだったが様々な現場や経験にふれることでコミュニケーションの重要性などに気付くことになる。

デザイン事務所へ就職
1年生の終わり頃には就職活動を始めた。成績はよかったので学校からは上場企業への斡旋もあり、内定はいくつかもらっていた。しかし肝心のグラフィックデザインの仕事は求人すら満足になかった。卒業間近になって、内定はすべて蹴った。恩師の先生から茨城のデザイン事務所を紹介される。

お金を節約したかったので、引っ越しはデザイン事務所のワゴン車を借りて下道を通って仙台を往復した。後日談だが、保険に入っていなかったらしい。

デザイン事務所の仕事は、入社した当初は毎日午前様だった。休日は東京の友達と新宿で遊んでお金を使い果たした。お金がなくなると家具工場にいって肉体労働。昼飯と日当をもらった。入社3年目に大手印刷会社からの大きな案件を担当し、親会社で高く評価されるという現象がおき、元請けの印刷会社も喜んだ。自分のつくったビジュアルが全国版の新聞で一面広告になったときは興奮した。この仕事がきっかけとなって、受け身ではなく能動的に仕事に挑むようになった。

デザインは教えられるというよりも、見て覚える事が大半だった。これでは限界があると考え、本やインターネットで勉強したり、講座や勉強会に積極的に参加した。そうして行く中で「なぜこのデザインが良いのか?」「お客さんに必要なデザインとは何か?」を理論的に答えられるようになっていった。

入社3年目でデザインの講師に
理論的に話をするクセで、いろんな人に覚えた事を伝えまくる変な人だった。そんな理論的な言い方が気に入られたのか、専門学校の講師の依頼があり引き受けた。自分が思う理想的なデザイン教育を構築することが目的で現在も続けている。

経営への目覚め
黒田悦司氏に師事。理念と経営の実務を学ぶ。まず教えられたのは環境整備だった。勤めていた会社のトイレ掃除を実践し、事務所がキレイになっていった。

黒田先生は、私の住むアパートの近くに住んでいる方だ。奥さまの為に作った美術館を拝見しにいったときに色々と質問した事がきっかけとなって毎週月曜の朝7時から「輪読」をやることになった。それまでは9時頃起床だったので、朝に起きるのが大変だった。寝坊をし、何回かアパートのドアをたたかれ、起こされた。

人間の軸
黒田先生の輪読会では、まず「修身教授録抄」という日本の哲学者「森信三」先生の本を輪読した。幻の講話、中江藤樹、吉田松陰とつづけていった。輪読は、声に出して読み、和談で気づきを共有する。輪読を体験した事で、読書の認識が変わった。

輪読会で読んだ本には、日本人としての心のもちよう、生き方についてが書かれていた。それまでは、自分の生き方や想いがどうあるべきか自分なりに考えてきたつもりだったが、日々の現実に簡単に吹き飛んでしまうものだった。本の言葉を理解していくうちに、人として何が大事なのかを探究するようになっていた。

修身教授録抄では特に、自分自身の生き方を考えた。その中で、自分自身にも世の中で役割があり、生まれてきた意味があるのだと知り、志をもつという事が人生にどれだけ大切かを学ぶ事ができた。

なんとなくいつもぼやぼやしていた「なにが良い事か、大事なことはなにか」が、自分の中に生まれていくことを体感していた。

朝の輪読会はとにかく寒かった。
今思うと、自分の甘え心に喝を入れる意味で丁度よかった。

トイレ掃除と道徳心
何回か輪読会を続けると、ある日、輪読会の時間を使って黒田先生と会社のトイレ掃除をした。便器に手をつっこむ黒田先生の徹底的なトイレ掃除を見、そして実践して心が洗われた気がした。輪読で得た知識を日々すこしでも実践するためには、トイレ掃除や環境整備を徹底して行うことが大事だと感じた瞬間だった。それまでも事務所の掃除はそれなりにつづけていたが、以来、毎日誰よりも早く出社し、トイレ掃除を実践するようになった。

アパート前や、事務所の中などできる限り、掃除をしていった。事務所の環境整備の意識を高めるきっかけとなっていったとおもう。

1年もたつと、嫌な事があったら掃除をするクセがついていた。特にトイレ掃除をすると、すっと心が洗われるような感覚になった。ある意味宗教かもしれないが、仏教では掃除は基本的な修行だし、当たり前かと思った。不思議とトイレ掃除は続ける事ができた。こんな宗教なら悪くない。

子供の頃、特撮ヒーローが大好きで、その物語で語られるのは地球を救って、人に喜ばれることが、自分の喜びと感じる主人公達だった。「正しいこと」をして人に喜ばれる。一般的にはとても難しいことだろう。でも、今自分は正しい事をして人に喜ばれている。その感覚、感動を大事にしたいと思った。

交通事故
仕事に向かう途中、シートベルト未着の状態で電柱に時速80km以上で、激突し、社外放出。奇跡的に顔面にキズで命に別状はなかった。10日間入院して仕事に復帰した。何かやらなければならない事があるんですね。と神社の人に言われる。

離婚
同棲していた彼女と結婚するが、2年ともたず性格の不一致で離婚する。人生の理不尽さを痛感した。半年近く一人になると自然と涙がでてくるような状態だった。ひょっとしたら死んだ方がマシなんじゃないかとおもうくらいにつらかったが、大和信春先生の「心の自立」という本を読むことで、考え方が次第に整理されていった。自分自身への反省とともに、これも何かのメッセージと受け止め、人格を磨くことに精進するようになった。

外の世界へ
自分が離婚したように、人と人は同じ空間にいても同じ目的に共感したり、同じ意志をもっているわけではないんだと考えるようになった。当時、自分が勤めていた会社も同じで、共通の目的や理念があったり、目標を共有したり、「良くしよう」と意志をもって仕事をしているわけではなかった。人は感情的で、身勝手で、弱虫で、答えを探してて、強いものに弱くて・・・本当に弱い生き物なんだと思った。

その後、黒田先生からファシリテーショングラフィックを教えてもらう。多人数の合意形成をして、目的や意志を統一する技術だ。本格的に学びたい気持ちがあったので黒田先生から新潟の博進堂を紹介してもらい、ファシリテーションを学びに行った。そして、これは自分が求めていたものだと感じて実践するようになる。

黒田先生からは他に問題解決学、情報統合技術(IST)を学んだ。あらゆる現象や事象を定量化したデータとして捉え、最適な答えを導きだす手法はデザインの実務では非常に役に立った。

私の仕事は、まず打ち合わせに行き、お客さんの話を聞く事がスタートになる。お客さんのまとまらない話を分析、整理整頓して、その場で大まかな方向性を指し示し、提案書にまとめる事で仕事になる。特に発想豊かで忙しい経営者、マネージャーの方には好評を得ているように思う。

務めていた事務所では、仕事になる見通しのない、混沌とした案件を主に担当していた。というよりも、既に仕事として形になっているものは他の社員がやってしまい、私に面倒な案件が回ってくる。

面倒な案件こそ楽しんだ。

私は面倒な案件こそ楽しんだ。

実は面倒と思えるプロセスをお客さんと共有することで、表現する対象の深い理解が得られるんだとわかった。お互いの信頼感が構築されいき、良い関係が構築できる。

誰しも、自分がやりたい事、やらねければならない事をきちんと生み出すことは難しい。事実、お客さんにとことんつき合って、やるべき仕事として形にしていくには相当の労力が居る。

でも、そのプロセスがなんだか好きだ。

相手に成果をあげてもらいたいという想いがあるからこそ、真剣に話を聞き、成果迄つなげる為のありとあらゆる施策を模索する。形になってお客さんに満足してもらうのはもちろんだけど、成果に結びついた時は最高に嬉しい。

そうやって「面倒な仕事」に積極的に取り組んだ結果、売り上げがついてきた。お客さんからの一定の指示が得られるようになったのだ。お客さんの信頼が得られると、お客さんもこちらを応援してくれるようになった。そうすると、さらにお客さんの為に仕事をしたくなった。

それが私の原動力になっていると思う。

なので、私が手伝っても役に立たないと判断した時はどんなに高額な仕事でも断った。

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